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本当の「見える」は、「見えないもの」を信じること(5月21日全校礼拝にて)

新約聖書ヨハネによる福音書 9章35~41節

 

「見える」「見えない」とはどういうことか。

生まれつき目の見えない人がいました。
イエス様はこの男の目に土を塗り「シロアムの池で洗いなさい」と言われる。
男がその通りにすると、彼の目は開き、ものが見えるようになる。
そこで騒動が持ち上がります。
この出来事は一体、どういうことか?
見えるようになった男が呼び出され、その両親までもが質問をされます。
これはどういうことなのか、と。

男は最初、どこの誰かも分からない方が自分の目を開けてくれた、と言います。
その男はどのこの誰なのか?と質問が始まります。
目が見えるようになった人は人々から詰問をされているうちに
「預言者ではないでしょうか」「神のもとから来た方だ」と表現を変えていきます。
これを聞く度に人々は黙っていません。
今日は安息日、この日に働くものが神からの使者であるはずがない。
自分の言うことを誰も聞いてくれないので、たまりかねて目の見えるようになった人が言います。
「神からの者でなければ一体だれがこんなことができるのですか。私は今までこんなことが起こったことを聞いたことはない」と。
それを聞いて人々はこの者を社会から追い出しました。

物語ですから「どこかにある話」と私たちは読むかもしれません。
ただこれは「どこかの話」ではありません。
「どこにでもある話」です。

どこが「どこにでもある」のか。

見えなかった者が見えるようになる。
普通に考えてみてください。
私たちが想定する社会なら、一緒に喜ぶはずです。
なんとすばらしいことが起こったのか。
よかったね、と

ところがそうはならない。
残念ですがそれが現実です。

人々が語っている言葉を注目してください。
彼らが語っているものは全部、過去を基軸にしたものです。

あなたがどんなに素晴らしい発見をしたとしても、今までに見たこともないような実験方法で得られた結果などエビデンスにはならない。
なんの経験も、実績もないものが「これが良い」と言っても信用はできない。

見えないとはどういうことか。
過去の言葉に埋め尽くされているものが見えなくなっているのです。
過去の情報を持っている。
知識がある。
経験がある。
それは立派な人、信頼のできる人となります。
ただ、聖書は「それは自分は見えると言い張ってはいるが本当は見えないものだ」と。

見えるとはなにか。
目の見えるようになった人は言います。
「主よ信じます」
「主」、この福音書では「主」は神そのものです。
神を信じる。宇宙の秩序を信じる。大きなものを信じる。
それは目に見えないものを信じる。
自分の見えないものを信じる。
自分を信じる。
「見えないもの」を信じる、
それが「見える」ということです。

Only Oneになる。
本当の自分。
自分の見ているものを信じる。
他の人には見えません。
だれもが見えるものは「過去」のものです。

人が見えないものを見えるという
衝突、戦いが起こるでしょう。

それでも自分の信じるものを捨てない。
「見える」
自分を
Only Oneを大切にする。

自分は「見える者」なのか。
考える一日にしてください。