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期待を手放し「今」を信じる―クリスマスの問い―(12月8日全校礼拝にて)

新約聖書 ルカによる福音書1章26~38節

 

2学期の通常授業の最後の礼拝です。
今日読んだ聖書はルカが記したクリスマスの物語です。
ルカはクリスマスの物語をイエスの誕生と洗礼者ヨハネの誕生とセットで記します。
その意図はなんでしょうか。

洗礼者ヨハネの誕生に際しても登場するのは天使ガブリエルです。
ガブリエルがザカリア、エリサベト夫婦にヨハネの誕生を告知します。
「もうすぐ、赤ちゃんが授かりますよ。
生まれてくる子どもをヨハネと名付けなさい」と。

ただザカリア、エリサベト夫婦は大変歳を取っていました。
とてもじゃありませんが、こどもを作ることの出来る年齢ではありません。
ですから「歳をとった私たちにそのようなことがありえましょうか」と答えます。
とてもまっとうな答え、普通の反応です。
ですが、この答えにガブリエルは満足しません。
「信じないからしばらく口がきけなくなる」とガブリエルに言われ、
ザカリアはヨハネが生まれるまで言葉を発することが出来なくなりました。
ザカリア、エリサベトの考え方、それを簡単にするとこういう言葉でしょう。
「もう、遅いですよね」

一方のマリアの方です。
同じガブリエルがマリアのところに行きます。
「あなたに男の子が生まれる。その子をイエスと名付けなさい」
これに対してマリアが答えます。
「そんなことがあるのですか。わたしは男の人を知らないのに」
これを簡単に言うとこうなるでしょう。
「まだ、早い」

「もう遅い」
「まだ早い」
エリサベト、ザカリア、マリア、この人たちは普通の反応をしていますが、ここに共通しているものは何ですか。
「遅い」「早い」正反対の時間のことを扱っている言葉ですが、ここに共通しているものはなんでしょう。
「今ではない」です。

私たちの時間の考え方を振り返ってみましょう。
私たちは「今」を生きていますか。
考えてください。
明日から定期試験、その先は大学受験。
気になりますよね。
未来に気を使いながら生きる。
それは「今」を生きることでしょうか。
また、過去の自分の経験、あるいは人から受けた批判、賞賛、そういったもので自分はこういうものだと思ってしまう。
「今」の自分ではなく、過去の自分を自分だと思っていませんか。
もし、そうだとしたら、それは「今」を生きていることになりませんよね。

今を生きる。
口で言うのは簡単です。
ですが、その「今」は未来に気をつかっているもの、過去に引っ張られているもの、今でないところを生きようとしていませんか。

当たり前のことですが、私たちは「過去」を生きることはできません。
「未来」を生きることもできません。
生きられるのは「今」だけです。
ただ、その「今」が純粋な「今」にならない。
過去と未来が貼り付いた「今」になっている。

では、どうしたら「今」を生きることになるのか。
物語はそのヒントを私たちに与えていると思います。
マリアの台詞です。
「お言葉通りにこの身になりますように」
これは言葉を替えるなら
「あなたの言っていることを信じます」です。

今を生きる。
それは「信じる」と結びついています。
ただこの「信じる」という言葉をよく考えてください。
「あなたは今度の大会でいい成績を残すと信じている」
「私はこの大学の入ることできると信じている」
私たちはこういうふうに信じるを使います。
この場合の信じるは実は「期待する」と置き換えられます。
期待するとは自分の思いを相手に押し付けることです。

神様を信じる。
多くの場合、神に私の期待を神に押し付けているものでしょう。
だから信じたのに裏切られた。
私の願いをかなえてくれない神なんか信じない。
それは私の願いを押し付けているのに、聞いてくれなかった、ということでしょう。
それは信じるとは違います。
では信じるとは何か。
期待を押し付けるのではない向き合い方。
それが「今」を生きることにつながっています。
今を生きる。
未来に気を配るでもなく、過去に引っ張られないでもない生き方。
それが分からない。
それは多分「信じる」が分からないからです。

信じるとは何か。
それが今を生きることにつながります。

クリスマスの物語が私たちに問いかけていることです。
クリスマスの時期、この問いを考えてください。