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「十戒」は答えではなく、あなたへの「問い」である(2月14日全校礼拝にて)

新約聖書 出エジプト記20章1~7節

 

3学期です。
中学1年生も約1年をこの聖学院で過ごしてきました。

聖学院はキリスト教を大切にしている学校です。
しかし、大切にするといっても、ただ「神様がいると思いましょう」「困った時は神様にお願いしましょう」
といったことだけがキリスト教ではないと、中学1年生も分かってきていると思います。

キリスト教はイエス・キリストという人物を探求する。
そこから思想形態をと整えていくものです。
そういう営みをしているものです。

イエス・キリストは何をしたのか。
イエスは律法を大事にしました。
律法の中心にあるのはモーセが神様から与えられた十戒です。
今日、読んだ聖書はその十戒の最初の部分です。
ここに「安息日を守れ」という言葉があります。
イエスの時代の人々も律法を大切にしていました。
安息日。それは神様を大切にする日。
ただ、神様のことだけを思う日として、何もしてはいけない日とされています。
当時の人々はこれを守らなければならない「答え」と考えていました。

イエス・キリストは十戒を探求した方です。
そのイエスは安息日に働きます。
人を助けるという作業をします。
それにも関わらずイエス本人は「自分は律法を完成する」と言います。
人々はこのイエスの言動に怒ります。
律法を破っておきながら、律法を大事にしていると言うとは何事か。
イエスはとんでもない者、生かしておいてはならない者として殺されます。

イエスは一体何を考えていたのか。
律法を守ると言っておきながら、律法を破ることを平気で行うイエスとは何者なのか。
イエスは十戒をどのように考えていたのか?

十戒には「これをするな」という言葉が繰り返されます。
その「するな」という言葉に注目してみましょう。
嘘を言うな。殺すな、人のものを欲しがるな。
ここに共通しているものは何か。
それは全部、人と自分を比べた時に起こる心の動きです。
自分が嘘をいうことが必要なことだ。
人が持っているものを自分のものにしたい。
全部、人を見て、です。
十戒が「するな」と言っていること。
それは人を見るなです。
人に引っ張られるなです。

イエスは十戒を真剣に考えました。
何が見えてきたのか。
十戒は答えではない。
十戒は問いだ。

人に引っ張られない私になりなさい。
そこで問われています。
人に引っ張られない私になった時、
人から離れた時に生まれる私
本当に私

で、その本当の私になった時、あなたは何をしますか。
で、あなたはどう生きますか。
十戒は問いです。

キリスト教は、持っている思考形態は決まった答えを反復すれば良いですよ、というもので貼りません。
イエスは十戒を読みながら会得しました。
安息日を守る。
それは答えとして受け取るものではない。
安息日、神を大切にする。
それは、神の問いかけに応える時。
イエスはその問いへ応答をしました。

あなたはどう生きるのか。
何をするのか。

神が待っているのは、そのあなたです。

世界にあるものは、すべて問いです。
その問いにどう応えるか。
それが私たちに求められていることです。

聖学院はキリスト教を大切にしている学校です。
問いの前に自分はいる。

そのことを今日も自覚をしてください。
それがこの学校で生活をすることです。