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【シリーズ:聖書の思考回路】第6回

今回もおさらいからです。

聖書には独特に思考回路があります。
その思考回路を探り当てるために「定言命題」を手掛かりにしています。
「定言命題」をはっきりさせるための比較対象「仮言命題」
私たちが今取り扱っているものです。

仮言命題に潜んでいるもの。
「支配」「依存」「不自由」です。

「お前は番犬の務めをしたらかわいい」
この言葉を受け入れた犬は「番犬の務め」に依存、支配されて生きていくことになります。

「依存」「支配」「不自由」のない思考回路。
すなはち「自由」な思考とはどういうものか。
そのヒントが「定言命題」です。

 

定言命題の言い方だとこうなります。
「お前はかわいい」

「犬」と「かわいい」の間に何もありません。
「条件」「原因」「経由地点」がない。
何もなければ「依存」も「支配」もありません。

主人にとって「犬」はかわいいのです。
何をしようが、何をしなかろうが、どうなってもかわいいのです。

 

イエス様が「あなたは地に塩、世の光」と言いまいした。
「塩」「光」
この世界に掛け替えのない者という意味ですが、それは「もうあなたはそういうもの!」という宣言です。
どんな人生を歩もうが、あなたは「塩」「光」それは決して変わらないという宣言です。

努力をして「塩」「光」になりましょうと、もしこれを考えるならそれは仮言命題です。
「努力」を経由して目的地に辿り着こうは「依存」「支配」を受け入れることです。

 

聖学院の掲げる「Only One」は「Number One」とは違うと私たちは言ってきています。
「Number One」は比較対象を持たなければ自分が「Numberいくつ」なのか確認することができません。
他者と比べて自分を確認する。
何かに依存して自己確認という目的地に到達するのは仮言命題です。
Number Oneとは仮言命題なのです。

Only Oneは何にも依存しません。
私はこういうもの。
それをただ信じぬく。
それが「Only One」です。

ただここにはまだ触れていない大きな課題があります。
何にも依存しない「自分」を私たちはどのようにして見つけることができるのでしょうか。

「これが私!」
と私自身が思ったとして、その「これ」をよくよく吟味すると家族の影響であったり、時代の流行であったりと何らかのものがそこには張り付いています。
その張り付いたものとは私が依存しているもの、固執しているものでしょう。
だとすれば「これが私!」と私が感じたものは何にも依存しない「Only One」ではありません。

更に言えば「自分とは何だろう」と考え始めた時に言語によってこの作業を行うならば、言語に依存、支配された思考になります。
依存、支配となれば仮言命題です。
仮言命題で思考したものは定言命題「Only One」ではありません。

 

ではどのようにしたら、私たちはOnly One 聖書の思考回路「定言命題」を獲得することができるのでしょうか。

次回からは実際の聖書のテキストを用いながら「定言命題」「Only One」について考えていきたいと思います。