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創立115周年記念祭によせて

創立記念祭のために彩られた校舎(2019年)

聖学院に在学していた時、私は記念祭が大好きでした。
私だけではありません。「みんな」と言っても良いほど誰しもが記念祭が好きでした。
当時は体育祭もこの時期にありました。一週間がまるまる記念祭。その準備もありますから中間試験が終わればお祭り気分です。
体育祭では各クラスが看板をグランドのネットに貼り付けます。自軍の名乗りのようなものです。畳サイズのものを最低でも4枚は貼り合わせたベニヤ板にペンキでクラス毎の絵を書きます。大きさ、絵柄、勝負はすでに始まっています。
体育祭の準備をするもの、記念祭の準備をするもの、下校時間まで教室にも廊下にも人が溢れていました。
記念祭は年に一回、女子聖学院との交流ができる日です。「この時」に仲良くなろうとするもの、「この時までに」「この時から」、記念祭への妄想は加速していきます。

もちろん個人差はありますが、私たちはお祭りが好きです。そのお祭りとは一体なんなのでしょうか。なぜ人はお祭りが好きなのでしょうか。

キリスト教にも「お祭り」があります。お祭りという言い方はしていませんが、毎年繰り返されている特別な日があります。クリスマスや、イースター、ペンテコステなどがこれにあたります。キリスト教ではありませんがハロウィンもお祭りでしょう。
これらのお祭りに共通しているものは、今、生きている私たちが別の世界と交流ができるとされることです。ハロウィンは死者との交流です。クリスマスは別世界の神とこの世界との交流が始まったことを記念しています。イースターは滅びの世界と永遠が交流をした日でもあるでしょう。
交流とは表現を変えれば、それまで立ちはだかっていた「境界線」がなくなることでもあります。超えてはいけない、超えられないと思っていた境界線をまたぐことができる。あちら側に行ける。世界がつながっていることを知るのがお祭りなのでしょう。
東京では三社祭りを始め、お祭りで元気になる人が沢山出てきます。意識、動機はそれぞれ異なるでしょうが、生物としての人間の根本のところでは境界線が超えられる喜びを感じているのだと思います。
境界線は秩序、効率性を構築するためには必要なものです。必要なものではあるのですが、それを忘れられる日も私たちには大切なのです。

聖学院は今年も例年通りに記念祭を開催することができません。境界線を忘れる大切な経験ができません。できませんが、この機会にこそ考える必要があるのでしょう。目に見える形でのお祭りがなければ境界線は超えられないのか。見えない何らかの方法で境界線を超えることはできないのか。
境界線とは一体なんなのか。境界線は本当にあるのか。日常と、お祭りの日とどちらが本当の世界なのか。
お祭りが開催できない今だから考えてみたいと思います。