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【シリーズ:聖書の思考回路】第9回

「定言命題」「仮言命題」
これらが聖書の中でどのように展開されているのか。
その続きをお話しいたします。

今回は創世記の2章を扱います。
ここも天地創造の物語が記されていることろです。
ただ、これは1章の続きではありません。
別の物語です。
読めばすぐに分かることですが、1章で神様が世界を造られたのですから、世界は存在をしているわけです。
それが2章になってまた神様は世界を造り始めます。
1章で世界を造ったはずなのに、なんでまた造るのか?と言いたくなります。
この疑問への一番明解な答えは1章と2章は「天地創造」という同じ題材を扱っているが、別の物語である、ということになります。
ただ、別の物語ではあるのですが、2章も1章と同じ構造を持っているのです。
定言命題という構造です。

2章の主な出来事は「人」を造ることです。
聖書の人間観が記されていると言えるでしょう。
その人間は神様が「塵」から造られました。
「塵」に神様が息を吹き入れて「人」生きるものになったのです。
ただ、神様は「人」が一人でいるのはよくないと考えて、助け手を送ろうとします。
助け手を送るのですが、どれも相応しくありません。
助け手になれなかったものが「動物」として世界にあふれていきます。

人に相応しい助け手は別に造るのではなく「人」本人から造ろうと神様は考えて、「人」のあばら骨からもう一人の「人」を造ります。
神様が新しく造ったものを「人」(アダム)の前に連れて行きます。
その時に「人」(アダム)は言いました。

「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉、
これをこそ女(イシャー)と呼ぼう、
まさに男(イシュ)からとられたものだから」

アダムがのちにエバと呼ばれることになる女と出会った時の言葉です。
この詩は読書に何を想起させようとするものでしょうか。
アダムはエバを見て「私の骨だ」「私の肉だ」と言います。
言い換えるならば「私がそこにいる」ということです。

目の前に私がいる。
あたかも鏡を見ているかのように。

前回扱った1章の整理をここでさせてください。
このような等式が1章では成り立つと言いました。
神 = 世界
この等式は定言命題だとも言いました。
この等式、= のイメージにもうひとつ別の表現を加えます。
「対称性」
同じという意味です。
形が同じ、対称性です。
対称性のひとつの現れ方として「鏡面対称」という表現があります。
鏡に映ったかのように同じということです。

創世記1章の物語は「鏡面対称」と重ねると整理がしやすくなります。
神 = 世界
これは神様の心を鏡に映したかのようにして現れたのが「世界」だということです。
神様と世界は鏡面対称の関係にあると言えるのです。

これは創世記2章にも引き継がれています。
アダムはエバを見て「これは私だ」と言いました。
鏡面対称が起こっています。

お前はかわいい
犬 = かわいい
これも鏡面対称です。
定言命題は等式が成り立つと言いました。
それは「定言命題は対称性である」ということでもあるのです。

世界は対称性で出来ている。
それが聖書の世界観です。

創世記1章と2章は別の物語です。
別の物語なのですが、それぞれの物語がテーマにしているものは同じです。
「定言命題」「対称性」です。

ここからは憶測です。
聖書がその一番最初に「対処性」「同じ」を持ってくる。
これは彼らの戦争体験から来ているのかもしれません。
何かに依存する「仮言命題」
依存しているものが目減りしたり、消失したりする。
仮言命題の思考回路では頼りにしているものがなくなるのですから世界の終わりにも等しいです。
それをなんとか防がなければならない。
どんな手を使ってもの自分が頼りにしているものを守り抜く。
戦いも正義になります。

仮言命題では戦争になる。
仮言命題ではダメなんだ。
聖書を残した人々の思いだったのかもしれません。
何にも依存、支配されない。
それが本当の世界の姿なのだ。
そこから始めないと人は同じことを、争いを繰り返す。
戦争を体験した彼らだからこそ見つけられた世界観なのかもしれません。

イエス様は「汝の敵を愛せ」と言いました。
世界は対称性で出来ている。
目の前にいるものは私と同じだ。
敵なんかいない。
創造物語の世界観はイエス様も持っています。
Only One
この世界観が根底にあります。