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【シリーズ:聖書の思考回路】第16回

執着をしない。
定言命題を行う。
これを実現できる入口を示してくれるのがパウロの手紙です。

フィリピの信徒への手紙
聖書に収められている他の文書と比較すればとても短いものです。
短くはあるのですが、ここに大切な考え方が記されています。

 

手紙の言葉を用いながら説明をいたしましょう。
聖書には「章」「節」という目印があります。
フィリピの信徒への手紙の1章の12節以下にはパウロの実情を記した言葉があります。

「キリストを宣べ伝えるのに妬みと争いの念にかられてする者もいれば善意でする者もいる。一方は私が囚われているのを知って愛の動機からするのであるが、他方は自分の利益のために、私を苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせるのです」

パウロは囚われています。
パウロにとっての外の世界では相反することが起こっています。

パウロを応援するものがいる。
その一方で具体的な行動については何も語られてはいませんが、パウロを否定するかのような方法でキリストを宣教する者たちがいる。
パウロの時代からキリストについての解釈は分裂をしていたようです。
パウロと同じような考え方を持っている人々。
それとは異なる考え方を持っている人々。
こういう相反する人々がいる、と言った後のパウロはこう記します。

「だが、それがなんであろうか。口実であれ、真実であれ、とにかくキリストが告げ知らされているのですから、それを喜んでいます」

この言葉については後ほど触れます。
まずは手紙の続きへ進みます。

パウロが次に語ったのは

「私にとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども肉において生き続ければ実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか私には分かりません。この二つの状態の中で板挟みの状態です」。

パウロは生きるべきか死ぬべきか、その答えが見つけられないと言います。

もうひとつパウロが記したものを指摘します。
この手紙の結びのあたりで教会のものに生活面のことで報告をする件です。

「もの欲しさにこう言っているのでありません。私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっているのです」。

 

三つの箇所を紹介しました。
この三つは一見、個別の事柄を扱っているように見受けられます。
ですが、ここには同じ思考の構造、思考回路があります。
その思考回路は「執着をしない」「定言命題の実行」で直面した矛盾を解決するものです。

整理をしてみましょう。
一つ目は「敵」「味方」です。
この両者を比較すれば、普通は答えは明解です。
味方は大切にしますし、敵は退けます。
ですがパウロが言っているのは、どちらでもいい、です。

二つ目の事柄はもっと明解です。
生きる、死ぬです。
答えは出ています。
生きるを選択するのが正しいことです。
ですがパウロはどちらを選んでいいかわからない、と言います。

三つ目の充足、不足、これも判断に迷うことはありません。
不足は回避したいです。
充足な生活を望みます。
ですが、パウロはそのどちらになっても大丈夫だと言います。

様々な対立を取り上げ、その解決はどれも、どちらでもいい、です。
「どちらでもいい」
優柔不断で、投げやりで、答えがない言葉。
無責任な言葉として、私たちは肯定的評価をしません。
ですが、これこそがパウロが見つけた「執着をしない」「定言命題」を実現する心の置きどころです。

「執着をしない」を意識した瞬間に執着が始まる。
「定言」で行こうと思った瞬間に仮言が始まる。
執着をしない。定言命題を行う。
どうすればいいのか。

「どちらでもいい」。

執着しても、しなくても、どちらでもいい。
定言でも、仮言でも、どちらでもいい。

どちらでもいいという領域に心が留まっていられれば執着はなくなるし、定言命題は実行されていきます。
執着しても、しなくても、行くべきところには行ける。
定言でも、仮言でも、できることはできる。
どちらから行っても大丈夫。

「執着」「しがみつく」の必要がなくなります。
支配が成立しません。

どちらでもいい。
自由が生まれてきます。

信仰とはこういうものなのでしょう。
「神様はいる!」に賭けるのが信仰ではありません。
それは執着です。
信仰は執着と真逆です。
どちらでもいい。
中庸と言っても良いかもしれません。
どちらにも偏っていない、依存も、支配もない自由な状態に心を維持する。
それは世界を信じていなければできないでしょう。
心配がある、疑いがある、そうなればすぐに保証のあるものにしがみつくのが得策です。
どちらから行っても大丈夫。
心配しない、疑わない。
「信じる」がなければ、はじまりません。

パウロは書簡において「信仰」を強調します。
聖書を丁寧に読むと「信仰」という概念はパウロが構築したとも思えるふしがあります。
古代から人々の心の奥底に「神様」「世界の秩序」への畏敬の念はありました。
それは漠然としたものだったのでしょう。
漠然としたものでよかった時代もありましたが、ある時からそれでは立ち行かなくなっていった。
漠然としたものをはっきりと意識しよう。言語化しよう。
大きなものへの漠然とした思い、それを「信仰」という表現でまとめたのはパウロの業績です。
信仰を強調するパウロ、
それは「どちらでもいい」という心の状態と密接にリンクしています。

どちらからでも行ける。
信じる。
どちらでもいい。

執着、固執が離れていきます。
定言命題が実現できています。
聖書の思考回路が始まっています。