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二学期始業式式辞 ―「自分を正しく知る方法」

聖書:詩編 139編1-6節
「主よ、あなたはわたしを極め 私を知っておられる。
座るのも立つのも知り  遠くから私の計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け  わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに  主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み  御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識は私を超え  あまりにも高くて到達できない。」

暑い残暑の日々が続いていましたが、例年よりも短い夏休みが終わり一週間早めの二学期スタートになりました。皆さんはこの夏休みの8月はどう過ごしましたか?私は特に戦争のことを考えさせられました。

8月6日広島、9日長崎において原爆死没者慰霊の平和記念式典がそれぞれ行われ、15日には第二次世界大戦の敗戦75年目を迎えました。この時期に私たちはメディアを通して、戦争が国内外において如何に多くの尊い命を奪い、人々に不幸をもたらしたかを改めて認識させられました。今も生存されている戦争体験者が異口同音に「戦争は勝ち負けに関わらず人間を不幸にする。絶対二度としてはならない。」と語っていました。これらの言葉をしっかりと心に刻みました。

さて、今日から学校がスタートしました。夏休み、多くの生徒諸君が家にこもっていた生活から外へ出て、今日、学校に来て、一緒に勉強し、体験を共有してくれる隣の友達や先生がいてくれて嬉しいですね。

皆さんは、「自分探し」という言葉を聞いたことがありますか。このコロナ禍の只中で、ひたすら外出を控え、家に籠っていると自分を見つめる時間が増え、自分についていつも以上に考えたのではないでしょうか。

皆さんは、自分のことを最もよく知っているのは、自分自身だと思っていませんか?理由は、自分はいつも自分と共にいて、外からは見えない、自分の心を最もよく知っているのも、親や友人よりも、自分に違いないからです。人は私のことをいろいろ言うけれども、私のことを一番よく知っているのは私ではないか、と。 けれども、本当に私は、自分のことをよく分かっているのでしょうか。自分の顔さえ自分自身の目では見ることができないのが人間です。

鏡に映っている自分を見て、客観的に自分の実際の顔や姿を知ることができます。皆さんは、自分の姿をどれくらい鏡に映して見ますか。あるリサーチによると、店のショーウインドーやスマートフォンに映る姿をちらりと見ることも含めると、一日に60回から70回にもなるといいます。実際に鏡に自分を映して見ると、自分はこんな顔をしていたのかと驚くことがあると思います。または写真やビデオに写っている自分を見て、こんなはずはないと思ったことはありませんでしょうか。意外と自分の姿は見えないので、きっとこうに違いないと思い込んでいる可能性があると思います。

鏡と言えば、人間関係も自分を映す鏡だと言うことができると思います。ただ、人からどのように思われているかということで、自分を決めない方が良いと思います。確かにそれは一人の意見であり、自分を知るための一つの参考にしたら良いと思いますが、それはあくまでもその人の見方に過ぎず、必ずしも正しい客観的な判断とは言えないと思います。その人のフィルターを通して見た姿であって、その意見はゆがんだ鏡に映った自分である可能性が大いにあると思います。それを自分だと信じる必要はないと思います。

では、客観的にゆがむことなく自分を知るにはどうしたらよいでしょうか。宗教改革者のカルヴァンは、自分を知るためには、まず、神を知らなくてはならない、と言っています。

「聖書は心を映す鏡」だと言われています。鏡は、そこを覗き込む私たちに、「あなたの姿はこうだ!」とありのままの姿を映して見せます。そして、「私」という人間の全体像を写して見せてくれる鏡が聖書です。自分自身を知るためには、聖書が告げるところの神のもとへ出かけていって、そこに自分自身の姿を映してみることです。すると、そこに見えてくる自分の姿があります。それは、神によって創られた私であり、神の御前で罪を犯した私、またキリストの十字架によって罪を赦していただいた私です。万物の創造者である神を知ることと、神に創られた人間のひとりである私を知ることは、切り離すことのできない関係にあります。

今日の聖書に「主よ、あなたは私を究め。私を知っておられる。わたしの道にことごとく通じておられる。」とあります。神とはこういうお方だと聖書は説明しています。自分探しの第一歩は、聖書の語る言葉を聞くことです。しかし、聖書の言葉を聞くのには、これで完璧ということはありません。私たちは、神についても、自分自身についても、完全な知識をもつことはできません。聖書はいつでも今、新しく聞かれることを待っています。そして、私たちは聞くたびに、神の新しい御旨を知らされ、今まで知らなかった私たち自身の新しさにも気づかされます。 この二学期には、毎日の礼拝で読まれる聖書の言葉を心に蓄え、自分のことを誰よりも知って下さり、いつも共にいて守って下さる神を信頼し、神を仰ぎながら学校生活を進めていきましょう。