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中学校入学式式辞 2019年4月6日

聖書:詩篇119編9-16節 (特に15,16節)
「私はあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。
私はあなたの掟を楽しみとし み言葉を決して忘れません。」

新入生の皆さん、入学おめでとうございます。先月、卒業式をお祝いしたばかりで、今度は入学式を迎えています。保護者の皆様もおめでとうございます。
皆さんは、東京都には中学校はいくつぐらいあるか知っていますか? 2018年度4月時点では、国立8、公立616、私立184の計808校ありました。
皆さんは入学する前に幾度か本校の学校説明会を聞かれて選んでくださったことと思います。これらの808校の中で聖学院中学校を選び、入学試験を突破してめでたく今日入学されたわけです。
人間の側から見ると、自分と保護者と相談して選び、自分の努力によって合格したと考えられます。一方、神様の側からみると、不思議なことですが、神様が皆さんを選んだのだといっています。
ヨハネによる福音書15章16節
「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、其の実が残るようにと・・・・」
と、神の子イエス様はおっしゃっておられます。
「今、あなたが生きている場所や空間は実は私が与えている。そして私が与えているあなたという命と私が共にいるのだから、あなたは何も恐れることはない。」
と、イエス様は一人ひとりに言われます。

皆さんは、説明会で本校の教育に期待をもって選んでくださったはずですが、ひょっとすると、皆さんの中には自分の選びは果たして正しかったのか、どうか、内心不安が心のどこかにある人がいるかもしれません。そのような方のために先月3月に本校を卒業した卒業生の卒業文集を紹介したいと思います。

【青春の選択】
「聖学院に来て正解だった?」と僕は何人かのお友達に尋ねたことがある。ある人は「良かった」と言い、ある人は「んー、微妙」と答えた。同じ学校に通っていても、どう感じるかがそれぞれ違うのは当たり前ではあるが、面白い。お友達の中には、実は聖学院が第一志望ではなかったという人もいる。しかし、その人に同じ質問をしたら、「間違いではなかった」と答えた。
良かったか悪かったか、正解か間違いか、そんなことは比べようがない、と僕は考えた。6年間この学校に通っていたのだから、他校と比較はできない。だから、「わからない」というのが論理的には正しい答えなのかも知れない。とはいえ、その手の質問に対して「分からない」と答えるのは、いささかナンセンスだ。では、僕だったらどう答えるのか。
僕は聖学院に入学し、6年間通った。そして、今に至るまで様々な出来事があった。毎日の授業やお友達との交流、サッカー部やみつばちプロジェクトでの活動、体育祭や記念祭などの行事、山や糸魚川や沖縄、豪州や米国への留学など、聖学院の6年間では実に多くの体験をした。それらを通して僕は何を学び、何を得ることができたのか。行事が終わると、それについて述べる作文を幾多も書いてきた。その度にいつも「自分は本当にこれを学んだのか。本当にこれを得たのか。」と自問自答した。真剣に考えるとよくわからなくなるのだが、間違いなくそれらは全てかけがえのない思い出になったし、僕という人間を形成する一部となっている。もしも他の学校に通っていたら、この学びや会得はあったのだろうか。これには自信を持って「無理だ」と言える。
この学校、この教室、この環境、その連続体の中で、僕は生き、僕という人間は成長してきた。今の僕は、学校が楽しいし、6年間の学校生活が楽しかったとはっきり感じている。それはつまり、「聖学院に来て、正解だった」と堂々と答えられる根拠だと言えるのだろう。先生方やお友達に、心からありがとうをお届けする。」

本校は1906年の創設以来、人間教育の土台を聖書のみ言葉の真理の上に置き、聖書のみ言葉の光に導かれて今日まで112年の歴史を刻んできています。そして今、113年目の歩みを進めております。皆さんはこの113年目の新しい歴史を刻む一人ひとりになるわけです。ご存知のように、聖書は1000年以上にわたり、西洋のキリスト教文化圏において最も重要な書として読まれてきました。聖書を知らなければ、ヨーロッパがいかなるものか、如何に今日の姿になったのかを理解することはできません。文学、音楽、絵画など、ヨーロッパの巨匠たちが遺した芸術作品も、聖書を知らないようでは、其の真価を享受することはできません。逆に言えば、西洋的価値観が中心となっている現代社会において、聖書を知ることは世界を知ることに繋がっているのです。
「私は何のために生まれてきたのか? この世は何のために存在するのか? 人はどのように生きるべきなのか? どうして人は苦しまなければならないのか? 人は死んだらどうなるのか?」

このような人間としての根本的な疑問に対する答えが、聖書には書いてあります。そして、私たちが聖書の中で神が示す答えに出会うとき、そのあまりにも斬新さに驚きを禁じえないでしょう。また、聖書は世界を変える力を持つ書であり、私たち人間を変える力を持つ書です。

毎朝、この講堂で全校生徒中学1年生から高校3年生まで900名が礼拝を捧げ、聖書の言葉に耳を傾けます。われわれは神の意思を知るようにと、聖書を与えられており、この聖書はわれわれに、日々新たに読むようにと、日々新たに聖書のある箇所を熟慮するようにと求めているのです。
今日読んでいただいた聖書の言葉の最後に次のように書かれています。
「わたしはあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。み言葉を決して忘れません。」

中学高校時代、特に13歳~15歳は人生の種まきの時期です。では、何の種を蒔くのでしょう。幸せの種まきです。しかし、幸せというものは、幸せを願ったら、かえって与えられないものですね。もっと他の事を願ったら、其の報いとして与えられるものです。人間は自分以外の他の人を幸せにしてのみ、自分も初めて幸せになれる。
人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分、賜物を生涯かけて出し尽くすか否かにあると言われた人がいます。さらに、その天分、賜物を人のために捧げる、Only One for Others の本校の教育理念を生きることが本当の幸せにつながるものと考えています。

それでは、現実にできることとして、いったい何をしたらよいのか?
人間が幸せになるには、次の2つのことをやったらよいと思います。

1. 決心したことを最後までやり遂げる。其のとき自分に与えられている賜物に気づき、その賜物が磨かれ輝くようになる。
私の先輩で工務店の社長をしていた方がおりますが、彼は中学校の勉強はさっぱりだったけれど、中学を卒業すると大工の見習いになりました。見習いのときは、朝早くから日の暮れるまで、親方から怒鳴られながら失敗を繰り返しながら大工の技術を身につけたのです。数年後に独立して工務店を立ち上げ、やがて数十人の大工を雇い、面倒をみるまでになったのです。自分で立派な大工になろうと決めたことを最後まで貫いて、自分の賜物を他の人のためにつかう幸せに気づいたのです。

2. 人に対して親切にしてあげる。
「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いに対してイエス様は「あなたの隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。人間が人間として幸せに生きるための大切なことばが聖書の中に散りばめられています。聖書の言葉は、私たちの心に豊かに蓄えられ、時至って光を放ち、躍動する不思議な力があります。

皆さんも、人生二度なし、「人間にはただ一度死ぬことと其の後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル書9章27節)との言葉を心に留めて、これからの聖学院の学校生活を実り多き、充実したものに作り上げてもらえると嬉しいです。皆さんの命、存在そのものは神様に喜ばれています。その事実を自分の生きる土台として、親に、家族に、友達に、部活の仲間に、そして、初めて接する人に親切にすることを心がけて一日一日を過ごしてください。そうすれば求めている「幸せ」が報いとして待っていると言えます。
以上を持ちまして、入学式の式辞といたします。本日はおめでとうございます。