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信仰・希望・愛の種まき

お陰様で、3月2日(土)をもって2018年度の毎朝の講堂における全校礼拝をやり遂げることができました。一学期の4月から169回にわたり礼拝が続けられ、聖書のみ言葉の種が蒔かれて参りました。
聖書の中にイエスが話された「種を蒔く人」のたとえが載っています。これを読むと、神の言葉は豊かな地にたくわえられることを望んで、われわれのところに来ることがわかります。
神の言葉は道端に落ちることを望んでいないのです。そこでは、悪魔が来て、信じて救われることのないように、言葉を奪い取ってしまうのです。
神の言葉は石地の上に落ちることを望んでいないのです。そこでは根を張ることができず、「み言葉を聞いて、それを喜んで受け入れ、一度は信じるが、試練が来るとすぐに身を引いてしまう」のです。
神の言葉は茨の中に落ちることを望んでいないのです。そこでは、「人生の思い煩いや富や快楽にふさがれて」、窒息し、実を結ばなくなるのです。
全能なる神の永遠の言葉が私の中に宿るということ、種子が地に蒔かれるように私の中に蓄えられるということは何と不思議なことでしょうか。
神の言葉は心の中にたくわえられるのです。神の言葉の目的は、われわれの心の中で神の言葉自体が躍動するようになることです。神の言葉を聞くということは、神の言葉が深くわれわれのうちに宿るようにすることです。神の言葉について多くのことを知っていても自分のうちに何も「たくわえられ」ていないならば、何にもならないのです。それよりは、少しでもよいから聖書をゆっくりと読んで、それがわれわれのうちに入り込むまで待つほうがよいのです。
4月からの毎朝の全校礼拝で生徒が聖書の言葉を聞き、心に豊にたくわえて、み言葉がそれぞれの心の中で躍動する体験をさせていただければと願っています。