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「virtual 」と「real」

高校3年生の「聖書」の授業で次のような質問をしました。哲学者の黒崎政男さんがよく使う譬えです。

犬を連れて散歩を楽しんでいるAさん。新緑の季節になり、この公園は緑が豊かになり、小鳥のさえずりも聞こえ、静かな日だと思っています。いつもおとなしい「犬」が今日はそわそわとして落ち着きません。どうしたのかと犬の様子を窺うと、公園の奥が気になる様子。そこに何があるのかと目を凝らすと少年が口に何かを加えて遊んでいます。さらにそのくわえているものを見てみると、それは「犬笛」と分かりました。犬笛は高い周波数を出すもの。犬はその空気の振動は認知できますが、人はそれを聞き分けることができません。そこで犬はつぶやきます。「今日の公園は笛の音がうるさい」。
Aさんと犬。散歩を続けます。同じように散歩をしているBさんと出会い、挨拶を交わします。「緑が豊かになりましたね」とAさん。するとBさんは少し困った様子でこう言います。「実は私は赤外線と紫外線の光の波長も見えてしまうのです」。私たちは赤外線と紫外線の間にある光の波長を「色」と感じます。ただ赤外線と紫外線の領域にも「色」と認識されないだけで光の波長はあります。Bさんはその波長が見えるのです。ですから、Bさんはこう言いました。「この公園は○×色に見えるのです」とAさんが聞いたこともない色の名前を告げたのです。
さてここで質問です。この公園の「現実」「真実」「real」はどこにあるのでしょうか。

私たちは「realは私たちの目の前にある」「ここにあるのがrealだ」と言います。誰もが認識できる所にrealはあると思っています。これに対して公園で出会ったAさん、犬、Bさんはそれぞれに公園のrealが違います。ここにあるはずのrealが違っています。そこに「ある」ものが「ない」と互いに言われてしまっています。何が起こっているのでしょうか。

Aさん、犬、Bさん。三者とも嘘を言っているのではありません。自分の感じたものを素直に言っています。それでも、それゆえ、realが異なっています。「音」「光」その情報を私たちは身体のふさわしい器官、耳や目などで受信します。その情報が「脳」で処理されて「何色だ」「どんな音だ」と認識されます。

Aさん、犬、Bさんの公園についての認識が異なっていたのは三者の「脳」が違うからです。脳が変われば、認識、結果も変わってしまいます。そこで質問の確認です。realはどこにありますか。
私たちは、realは私たちの「外」「そこにある」と思います。ところがこの話から私たちが得られる結論として、realは私たちの「脳」にある、すなわち「外」ではなく「内」にあるということです。言葉を整理すれば私たちはrealだと思っているものは必ず「脳」を経由しています。それは「脳で作られた現実」「人工的現実」「virtual reality)とは」だということです。

公園で出会った三者は皆、自分のvirtualを述べあっただけです。ならば公園のrealはどこにあるのか。誰が公園のrealを認識することができるのか。「認識」を期待した時点で脳処理ですからvirtualですよね。

お話では「公園」としていますが、これを「世界」と表現しなおしても同じ課題にわたしたちは直面します。「これが世界の現実だ」と言っても、それは誰かのvirtual、つまり思い込みです。

実はキリスト教も含め歴史のある宗教はこの問題を課題として扱っています。「神」「真実」「正義」「愛」「平和」。私たちが大切だと思っているもの。それらは実は私のvirtual、思い込みでしかない。virtualだとしたら本当は「ない」のか。virtualだとしても「ある」のか。その思い込みは共有することが可能なのか。
Aさんに「Bさんのように思え」と言っても無理があります。犬に「静かだ」と思え、と言っても反発をされるだけでしょう。公園が世界だとしたら簡単に戦争は起こってしまいます。

realに人は辿りつくことができるのか。「聖書」の授業で高校3年生に考えてもらっています。

(校長:伊藤大輔)