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【シリーズ:聖書の思考回路】第12回

不条理を体験したアダム、エバ、カイン。
不条理の前で彼らがとった行動は間違いです。
彼らは本当はどのように振舞えばよかったのか。
聖書が私たち読者に問いかけていることです。
そして、聖書に登場してくる人物たち
実在した者もいますし、創作されたと思われる者もいます。
どちらであるにせよ、彼らは、皆、この問いに答えようと振舞っています。
不条理の中で人はどのように振舞えばいいのか。

 

今回から取り上げるのはパウロです。
パウロは新約聖書に収められている文書の約半分に何らかの影響を与えたものです。
彼自身の書簡もありますし、彼の名前によって記されたものもあります。
聖書、キリスト教の土台を作った者と言っても良いものです。

ただ、パウロ本人はキリスト教を作ろうという意識は恐らくなかったと思います。
本人の自覚はユダヤ教徒です。
実はこれはイエス様にも共通しています。
パウロも、イエス様も自分たちはユダヤ教徒だと考えていました。
旧約聖書を何より大切にしていました。
不条理の中でアダムやカインにならない別の振舞い方はどのようなものになるのか、
それを真剣に追い求めていました。

ところがご存知のように、イエス様もパウロも、ユダヤ教の指導者と対立をします。
イエス様は十字架にはりつけにされるくらい憎まれました。
パウロも投獄をされてローマに護送されました。
ユダヤ教の指導者に憎まれた二人がどうしてユダヤ教徒なのか。

これも「定言」「仮言」で説明をすることができます。

 

パウロとイエス様はほとんど同時代のものです。
彼らの時代のユダヤ教はどうなっていたのか。
「律法主義」と表現されるように決まりを厳格に守るものが社会に大きな影響を与えていました。
決まり事をちゃんと守る。
良いことです。
実はイエス様もパウロもこのグループに最初は属していた、
あるいはとても近いところにいたと考えられます。
聖書の中では「ファリサイ派」と呼ばれるグループです。

決まり事をちゃんと守る。
これはもちろん大切なことですが、これをよくよく吟味していくと何が見えてくるでしょうか。

 

決まり、律法を守らなければこの世界はちゃんとならない。
「律法」「決まり」に依存した仮言命題の世界観です。

律法とは旧約聖書と言ってもかまいません。
聖書に頼ろう、依存しよう。
聖書を大切にするのですから、それは正しいことだと思えます。
ですからイエス様もパウロも最初はこのグループと近いところにいました。

ただ、聖書自身は仮言命題を読者に勧めているでしょうか。
この答えを私たちはすでに持っています。
聖書は定言命題を基礎に持っています。
ところがアダムやカインがそうであったように人はいつしか仮言命題の虜になっていきます。
定言命題である聖書を大事にするあまり、いつの間にか聖書に依存し、定言命題を頼りにする、依存する。
それはもはや定言ではなく、仮言命題を始めているということです。

イエス様もパウロもそれに気が付きます。
「聖書は大切だけど注意しないと聖書が勧めていることと反対のことをしているよ」
と言い始めたのです。

依存、頼りにしている人々にはその言葉は届きません。
聖書を軽んじるふとどきものだ、で解釈は統一されていきます。
その結果が十字架であり投獄です。

 

聖学院が求めるOnly One
これは一生懸命に考えるとnumber oneに入り込んでいくということでもあります。
どうすればOnly Oneをちゃんと見つけられるのか。
それは不条理の中で人はどのように振舞えばいいのか、との問いとも重なります。

これから扱いたいパウロはnumber oneとOnly Oneの両方を経験した人です。
パウロの言葉からOnly Oneへの近づき方を次回から見ていきたいと思います。