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【シリーズ:聖書の思考回路】第23回

I am
何にもすがらない「私」
私は私
対称性

何やら分かるような、分からないような話が続いていますが、聖書は、ひも解けばひも解くほど、複雑怪奇、それでいて単純なものを語っているものと思います。
単純だけで複雑。
その聖書をもう少し読み解いてみましょう。
引きつづきヨハネ福音書です。

 

I am を多用するヨハネ。
その下敷きには「定言命題」があります。
その定言命題を別の表現で語っているものを今回は取り上げます。

イエスがサマリアの女と対話をする場面があります。
物語の前半にこの対話は記されてありますから、全体を方向づける役割があると想像することもできるでしょう。
サマリアはイエスの国・ユダヤとは仲が悪い関係にありました。
そういう背景がありますからサマリアの女はイエスに対してそっけない態度で始め臨みます。
それが対話が進む中で段々とイエスの言葉に吸い込まれていきます。
そのクライマックス部分でサマリアの女がイエスに尋ねます。
「私たちはこの山で礼拝をしていますが、あなた達はエルサレムだと言います。
これはどちらなのですか」
これは物語の状況での問いかけになっていますが、根本にある問いは「大事なものはどこにありますか」です。
それはここですか、あそこですか。
場所を聞いています。
これに対してイエスの答えは「この山でも、エルサレムでもない所で礼拝をする時が来る。今がその時である」

そうなのか、と思ってしまいますが、ここにはヨハネの思想が記されてあります。
女の問いは場所でした。空間ですね。
それに対してイエスの答えは今、時間です。
このやり取りは時空のやり取りです。
時間と空間とはいつでも変わらない「世界」を把握する基本です。
サマリアの女とイエスの対話は「世界とは何か」を語っている構造です。

 

少し寄り道をします。
時間とは何でしょうか。
簡単な整理をします。
物理の方々の力を借ります。
世界ビックバンから始まってエントロピーが増大する方向性で進んでいます。
エントロピーとはぐちゃぐちゃの度合いとしましょう。
机の上にきれいに並べられたコインはぐちゃぐちゃ度合いが少ない。
エントロピーが少ない状態です。
この机を私がゆすってコインをぐちゃぐちゃにする。
ぐちゃぐちゃ度合いが増えましたから、エントロピーが増大したと言えます。
そして誰もが分かることですが、コインがぐちゃぐちゃになった机をどんなにゆすっても最初のコインがきれいに並んだ状態に帰ることはありません。
元に戻らない。不可逆です。
エントロピーが増大するしかない、その方向性しかない。
それが発生した時、時間が生まれます。
時間とはエントロピーの増大です。
覆水盆に返らず
もエントロピーの増大、不可逆です。
私たちの体もエントロピーが増大し、不可逆です。
時間のシンプルな整理です。

この整理に従うならば時間は仮言命題の仲間です。
なぜなら比べないと分からないからです。
パソコンに映し出されている画像は静止画なのか動画なのか。
どうしたら判別ができるのか。
動いた時
すなはち、さっきと今が違う、さっきに依存して今が確認出来た時、時間がある、動画だと分かります。
静止画には時間がありません。
どんなに比較をしても同じ情報しか得られないからです。
比較が成立しない。
頼るものがない、仮言命題にならない。
仮言ではない
それは時間がないのと同じです。

 

空間も同じです。
「ここ」を認識できるのは「あそこ」との差異がはっきりした時です。
あそこを利用して「ここ」を認識する。
空間も仮言命題に要素で成り立っています。

時空とは何か。
仮言命題の要素を持っているものです。

次回、これを下敷きに話をすすめていきます。