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聖学院は「祈り」を大切にしています(10月5日全校礼拝にて)

新約聖書マタイによる福音書6章5~8節

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

 

私たち聖学院は「祈り」を大切にしています。
学校生活の様々な場面で「祈り」は行われます。
「祈り」とは何でしょうか。
「祈り」とは神様とお話をすることだとも言われます。
感謝、願い、献身、そのようなものが祈りの要素にはあるとされています。
こんなことが嬉しかった。
こんなことを思っています。
お話をする時に、こちら側の情報を相手に提供するということです。
そうだとすると、今日、読んだ聖書のイエス様の言葉を私たちはどのように受け止めたらいいのでしょうか。
「父は願う前から、あなたに必要なものはご存知なのだ」
神様は始めから全部、知っているということです。
ならば私たちはわざわざ祈りの言葉にして神様に報告をする必要はありません。
祈りが「お話し」「情報提供」だけなら、お祈りをする必要はありません。
それでも「祈り」は必要なのです。
何故でしょうか。

この「祈り」についてイエス様が語った箇所は「山上の説教」と言われるお話しの中の一部分です。
山上の説教の始まりは「あなたは地の塩、世の光」です。
Only Oneですね。
あなたは世界の中で塩のように命に欠かせないものだ。
この世界の希望だ、光だと語ります。
聞いているものを励ます言葉ですが、これに続いてイエス様は言います。
その塩味、捨てるよね。
捨てて、砂の様になっているよね。
明るい光なのに、ロウソクをテーブルの下に置いて隠すように、自分の光を誰の目にもふれられない所に置くよね。
塩、光、自分の賜物、それをなかったかのようにしているよね、と語ります。
何故、塩味を捨てるのか、光を隠すのか。
これについてもイエス様は語ります。
人の目を気にしているからだ。
人に心が乗っ取られているからだ、と。

タラントンのたとえ話もこれに重なります。
5タラントン、2タラントン預かった僕はそれを倍にします。
タラントン、自分に与えられた賜物です。
それを用いてタラントン自身を更に大きなものにできた。
しかし、1タラントン預かったものはそれを地中に隠しておいて、何もしませんでした。
主人にそのことを聞かれた時の彼の答えは「あなたが怖かったからだ」です。
主人が、人が気になって、自分の賜物を使うことができなかった。

イエス様は祈る時には奥まった一人だけになれるところで祈れ、と言います。
人のいないところ。
自分だけのところ。
私だけになれるところ。

祈りの場所だけの言葉ではありません。
祈りそのものを語っている言葉です。
祈りとは自分だけになるもの。
本当の自分。
人に作られたものでない自分。
Only One

祈りは神様への情報提供ではありません。
祈りは神に造られた真の自分と出会うための行為です。

本当の私
Only Oneは何か。
それと出会うため、私たちは祈りを大切にしています。