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クリスマス礼拝メッセージ(マタイによる福音書1章18~25節)

新約聖書マタイによる福音書1章18~25節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

聖学院はユダヤ・キリスト教の流れの中から生まれた学校です。
ユダヤ・キリスト教は聖書を大切にしています。
聖書に書いてあること
それをそのまま受け取ることが聖書の読み方ではありません。
聖書はここに書かれていることを通して考えるためのものです。
考えた末に、ここに書いてあることは真実だと世界を見据える目を養うための書物です。

世界の真実を秘めている聖書。
それはどのようにして記されたのでしょうか。

旧約聖書
これは紀元前五世紀、バビロニア帝国と戦争をして敗れ、捕虜、奴隷としてバビロンに捕囚になっていた時にまとめられた言葉です。
新約聖書
こちらはローマ帝国と戦い、敗れ、国土を奪われ世界中にバラバラにされた時に紡ぎ出された言葉です。
最悪、どん底、それが聖書に記された背景です。

クリスマスの物語もこの背景と無関係ではありません。
新約聖書の始まりは長い系図から始まります。
旧約聖書の中に登場する立派な人々も登場します。
偉大な王様ダビデも名前を連ねています。
その最後に登場したのがヨセフです。
このヨセフはイエス様の父親になったものです。
ですが、これはヨセフの系図であってイエス様のものではありません。
なぜならヨセフとイエス様は血のつながりがないからです。

イエス様は乙女マリアから生まれます。
聖書の表現に従えば、聖霊によって身ごもったことになっています。

ヨセフは系図をしっかり持っています。
過去がちゃんとあるものです。
歴史、これまで、伝統がある。
それがヨセフです。

一方のマリア。
原因が分からないことが自分の身に起こっている。
過去、前例がない。
新しいということです。

クリスマスの物語に記されていることは「歴史、伝統」と「新しい」が結びあってイエス様が生まれたということです。
これがユダヤ、キリスト教の戦争を通して見つけた世界観です。
まったく異なるもの
それが両立する。

本来、これは矛盾しますし、相容れないものです。
私たちの感覚から行くとどちらがいいのか決着をつけたいところです。
答えはひとつ。
それが世界のあり方だと思っているのが私たちです。

聖書の民にもその思い、その経験はあったのでしょう。
答えはひとつ。
その世界観で自分たちは戦いに敗れ、国土を失った。
何もかも失った。
答えはひとつではこの世界では生き残っていけない。

まったく相容れないもの
それを併せ持つ。
世界で生き抜くために必要な心構え。

私たちは現実に直面します。
その現実が大きければ大きいほど、その現実が真実、答えだと思います。
聖書はその私たちに言うでしょう。
答えが一つだと思ったら、この世界では生きていけない。
もうひとつある。
まだ何かある。
つらい時も、嬉しい時も、その現実に心奪われ、これがすべてだと思い込まない。
まだ、何かある。

自分の見ている世界の向こう側に、隣に別のものがある。
これを言い換えるならばこうなります。
希望を持つ。

聖書の民が最悪、どん底の中で人にとって最後に何が必要か。
それを記したのが聖書の物語です。
クリスマスの物語。
ここに秘められているものは希望です。
この世界で生き抜いていくために必要なもの。
これがすべてじゃない。
まだある。
希望を捨てない。

現実という大きな渦の中で希望を持ち続ける。
他のものに心を奪われない。
Only Oneを探し続ける心。
柔らかく自由な心。
その心がまだ見ていないもう一つの世界の入口へと導いてくれます。
希望を私たちに与えてくれます。

2022年、クリスマス。
世界で生き抜くために何が大切なのか。
聖書の物語から探し求めてください。