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世界は、本当は明るい(6月10日全校礼拝にて)

マタイによる福音書23章1~5節
それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。

 

イエス様がファリサイ派の人々を厳しく非難します。
イエス様とファリサイ派。
私たちの理解では、おそらく対立をしている両者というイメージだと思います。
ただ聖書を丁寧に読んでいくとお互い良く相手のことを熟知しているように読めます。
ひとつの仮説にすぎませんが恐らくはファリサイ派とイエス様はとても近い関係にあった。
ラフに言ってしまえばイエス様は、もともとはファリサイ派の一人だった。
そのくらいに近い関係だと思います。
ところがファリサイ派はイエス様を十字架にかけて殺すほど憎んでいました。
イエス様の方も、今日の聖書にあるようにファリサイ派はダメだとはっきり言います。
この両者は何が違うのでしょうか。

ファリサイ派とイエス様がぶつかった大きなポイント。
ファリサイ派はイエス様を見て、神様を大切にしていない、と感じていました。
神様からの教えである律法を無視するような行いを平気でする。
神様をバカにしているのがイエスだと思っていました。
またファリサイ派は「正しい」「間違い」をはっきりとさせています。
正しい生き方、間違った生き方。
正解と間違いが世の中にはちゃんとあると思っていました。
これに対してイエス様は、答えはひとつではないようなはぐらかす言葉ばかりを語ります。
不真面目でだらしないやつだとイエス様のことを思ったのでしょう。

ただ、このファリサイ派の感覚。
神様は大切。
正しいものを選ぼう。
これを私たちはおかしいとは思いません。
むしろファリサイ派の考えが正しいと感じます。
間違っているのはイエス様の方で、論理的にはファリサイ派を認めたくなります。
はっきり言ってしまえば、私たちとファリサイ派は同じです。
イエス様が違うのです。
では、その違いはなんでしょうか。

もう少し考えてみましょう。
ファリサイ派も私たちも神様は大切、正しい答えを選択しなければならないと考えます。
どうしてそう考えるのでしょうか。
少し表現を変えて考えてみます。
神様を大切にしなかったらどうなると思っているのでしょうか。
正しい答えを選択しない。
間違った答えを選択したらどうなると思っているのでしょうか。
おそらくこう思っているのでしょう。
不幸になる。
未来が閉ざされる。
夢も希望もない、暗い世界に投げ出されてしまう。
だから、そうならないために神様を大切にし、正しい答えを選択する。
ということは、私たちはどういう世界観を持っているということになるのでしょうか。
世界は暗い。
闇が支配している恐ろしいところ。
それが私たちの世界観です。

イエス様はそこを指摘します。
その世界観が違う。
神が造った世界が暗いわけがないだろう。
世界は明るい。
希望に満ちたおもしろいところだ。

明るい世界だから答えを選ぶのにビクビクする必要はない。
どちらを選ぼうが、何を選ぼうが、行くべきところには必ず行ける。

神を大切にするのも暗い海から救い出してもらうためにすがることではない。
神を信じるとは、この世界が明るいことを思い出すために行うこと。

イエス様とファリサイ派が袂を分かつ理由。
世界を明るいと見たか、暗いと見たか、です。

Only Oneを見つける。
聖学院が大切にしているものです。
それは世界が怖いから、それに打ち勝つ武器を身につけましょうという意味ではありません。
世界は、本当は明るい。
それを信じられた時にOnly Oneは見つかるでしょう。
あるいはOnly Oneが見つかった時に世界が明るいことに気が付くのかもしれません。
その明るい世界に飛び出したくなる。
for Othersが始まるのでしょう。

今日もこれから授業が始まります。
どの教科でも同じです。
良く聞いてごらんなさい。
見てごらんなさい。
「世界はおもしろくて明るい」が、どの授業にもちりばめられています。
世界は明るい。
本当の世界と出会うために今日も勉学にいそしんでください。