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「悔い改める」は、自らと向き合う(2月8日全校礼拝にて)

ルカによる福音書5章27~32節 レビを弟子にする

 

悔い改める
聖書はこれを大切にしています。
それは聖学院も同じです。
悔い改めるは大切なこと

ただ、私たちは「悔い改め」と聞くと「反省」「後悔」という言葉を連想します。
それは間違いではないのですが、聖書が考える「悔い改め」とは少し違います。
おそらく「反省」や「後悔」というものは、自分以外のものにしたことについてのふり返りです。
ふり返って、相手に対して謝罪をしたり、関係の修復をはかるためのツールとして「反省」「後悔」が求められるでしょう。
悔い改めは他者との関係修復を第一に置いている考え方ではありません。
悔い改めは他者ではなく、自分と向き合います。
自分を問うことです。

自分とどう向き合うのか。
自分に聞くのです。
私は私が好きか
私は私を愛しているか。
自分に聞くのです。

私が自分のことが好きなら、自分のことを愛しているなら
その時、思い出してください
創世記の最初の物語を。

そこに「本当の人間の姿」が記されています。
私たちが愛してるのは「本当の人間の姿」「本当に自分自身」ですか。

本当の人間、自分自身とはどういうものか。
創世記の物語ではこうなっています。
神が造り、それを見て、良しとされた。

本当の人間、
それは神がこれで良いと言った者です。

そして物語は続きます。
ヘビが現れ人間に語りかけます。
「お前には足りないものがある。
お前の持っていないもの
お前がまだ食べたことのない善悪の知識の木の実
これを食べろ」と。
人はこれを食べます。

良しとされていた。
これで良いとされていた
その自分は不完全だと思い込み、余計なものを身につけようと必死になる。

自分以外のものを身につけ、自分以外のものがどれだけ集まったかで自己評価を決めていく。
私が愛している自分とはなんですか。
自分以外のものをどれだけ集めたか、ですか。
自分以外のものを愛したところで、自分を愛したことにはなりません。
愛しているのは「自分以外のもの」でしょう。
それは自分ではありません。

本当に愛さなければならないもの。
神と同じものを愛する。

それは自分が集めてきた自分以外のもの
人からの言葉、評価、成績
それを払い落すことです。
その払い落す作業のことを「悔い改め」と言います。

人からの評価、
良いものなら嬉しくなります。
悪いものなら落ち込みます。
嬉しくなるのも落ち込むのも、仕方のないことですが、それらを全部、洗い落とさなければなりません。
本当の自分に出会うために脱ぎ捨てなければなりません。

聖書は、聖学院は「悔い改め」を大切にしています。
本当の自分
Only One
愛さなければならないものと出会うために「悔い改め」を大事にしています。

悔い改める
愛する自分と出会うための一日にしてください。