SEIG NEWS

何が起ころうとしているのか。

2011年。震災、津波、メルトダウン。
2020年。新型コロナウィルス蔓延。
2022年。ロシア、ウクライナ侵攻。-要人暗殺。

私たちの世界は大きな体験をしてきている。
多くの命が奪われている。
奈良で起こった狙撃は思想信条の主張ではないとも聞く。
「民主主義 vs 暴力」
この図式すら当てはまらない闇を感じる。
これまで「大切」「重たい」と私たちが思ってきたものが
「軽く」扱われ、無価値なものへと転換されていく。

創世記には人類創生の神話がある。
何不自由なく暮らしていた人のもとにヘビがやってきてささやく。
「お前には足りないものがある」
「お前はまだ完ぺきではない」と。
人はそこから神から「必要ない」と言われていた「木の実」を食べ、自分が裸であることを隠すようになっていったという物語。

本当の自分は見せられない。
自分を表わさない。
それで社会は形成されていく。
私は足りない。
私は不十分。
この自己理解に怯えているのが人間だと考えるのが聖書の人間理解。
それゆえ人は執着をする。
「足りない」は思い込みであるから、満たされることはない。
いつまでも続く恐怖。
飽くことのない執着、固執。
かき集め、自らを装飾し、自分を、自分以外のものにしていく。

自分が自分でなくなる。
人が人でなくなる。

自分に貼り付けるものが多ければ多いほど幸せになるという価値観。
その良く着くところは貼り付けるものを持たないものは価値がないという自己理解、世界観。

イエスの行った奇跡に5000人に魚とパンを配る奇跡がある。
5000人を前にしてわずかな食料しかない。
弟子たちは解散を提案するがイエスは自分の手元にあるものを配ってこいという。
弟子たちがその通りにしたところ5000人が満腹し、食べ残しを集めると12の籠がいっぱいになったという物語。

弟子たちは「持っていない」という自己理解があった。
持っていなければ通用しないという世界観があった。
「持っているもので行ってこい」
「裸で行ってこい」
それがイエスのすすめ。

世界に通用した。
12の籠
12は世界すべてを表わす数字。
12の籠にいっぱいになった。
世界すべてと向き合う準備がある。
何も持っていない者。
裸の私。
その私は世界と互角に渡り合える。

私たちは世界が大きく変わろうとしている転換点にいるのかもしれない。
すでに、大きく変わった世界の中に放り込まれているのかもしれない。
今まで持っていたものがすべて失われる。
価値観、常識、人の思い、命の大切さ。
それが世界から失われていくのかもしれない。
それでもなお私たちは信じたい。
この世界は次の世界への備えを蓄えていると。
私は十分なものを持っていると。

本当の私。
裸の私。
その私が本当は一番強い。
その私と出会う。

聖学院という学び舎がこの時代を進みゆくこどもたちに渡せるものは何なのか、
大きな問いの前に立たされている。

悲しみの中にあるすべての方々の上に神の豊かな慰めがありますよう祈ります。