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神様は私たちを期待しています(11月30日全校礼拝にて)

新約聖書マタイによる福音書18章21~35節

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラント借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分の妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 

今日は高校3年生にとっては毎朝の礼拝としては最後の全校礼拝になります。
その礼拝で特に3年生に考えてほしいことをお伝えします。

イエス様のたとえ話を読みました。
王様に借金のある家来。
どうしても返済することができず王様に泣きつきます。
憐れに思った王様は借金を帳消しにします。
その家来、帰りがけにお金を貸している友人に出会います。
借金を返せと迫り、友人が準備はないと告げると牢役人に引き渡してしまいます。
そのいきさつを知った王様が、その家来を呼び寄せ、どうして私と同じように友人にもしてやらなかったのか、と叱り、彼を牢に放り込みます。

一見、人を許しましょうと言う例えにも見えます。
ただ、ここで言われていることは私たち個人的なふるまいへの勧めにとどまるものでなないでしょう。
ここにあるのは世界観です。
世界とは何か。
それが語られています。

世界にはどうして「悪」があるのか。
神様がいるのなら、そういう悪を全部退治してくれるはずじゃないか。
悲惨な現状と直面するたびに私たちが思うところです。
悪がなくならない。
神さまなんていないんじゃないか。

私たちにも「悪」はあります。
キリスト教の言い方では「罪」です。
人に絶対に知られてはならないもの。
友達にも、家族にも知られたら、自分の身の破滅のような「悪」「罪」があります。
それを隠すための嘘もつくでしょう。
ごまかしながら生きるでしょう。
それで成功して、なんとか自分の立場を維持できる。
人に対してはそれが可能です。
ただ、神様に対してはどうでしょう。
人には隠せても、神様には知られています。
罪ある私がどうして今日も、のうのうと生きていられるのか。
この世界にどうして「悪」があるのか。
この世界についての答えが今日のイエス様のたとえ話です。

なぜ悪があるのか。
罪人は私がどうして今日も生きていられるのか。
神が我慢をしているからです。
神はいないのではありません。
裁きを行わないでいるだけです。
我慢、忍耐があって、悪がこの世界にある。
罪ある私が生きることができている。

神はなぜ、我慢、忍耐をしているのか。
我満、忍耐を言い換えましょう。
期待をしているからです。

私たちは神様から与えられている賜物があります。
Only Oneがあります。
それを私が見つけられるために
それが世界に本当に必要なものだから、神は私たちに我慢をしている。
私たちに期待をしてます。

私は神に期待をされている。
希望を持たれている。
愛されている。

それがこの世界です。

この世界であなた達がすること
神の期待に応えなさい。