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もう一度、立ち上がれる言葉(1月19日全校礼拝にて)

ルカによる福音書5章17~26節 中風の人をいやす

 

動けなくなる。

体が動かない。
これを経験した人は少ないでしょうが、
心が、気持ちが前に進まなくなる。
したいことが見つからない。
何をしていいのか分からない。
心が動かない。

この経験はすでに皆さんにもあると思いますし
これから何度も経験をすることでしょう。

今日、読んだ聖書の話。
病気の者が登場します。
この者も動けないものでした。
聖書の物語では動けない者
それは罪を犯したものだから、となっています。

「罪」と言われても私たちにはピンと来ません。
警察に捕まったような人ならば、「ああ、あの人は罪を犯したのね」と思うことはできるでしょう。
ただ、私たちは、そんな罪を犯したと言われるようなものだとは自分のことを思っていません。
ただ、次のような場合はどうでしょう。
「お前は、あの時、逃げたよな」
「お前が裏切ったから、こんなことになったんだ」
「なんだ、この成績は。こんなんで何ができると思っているんだ」
自分の失敗、
自分の過去
そういうものが心に貼り付いてくると私たちは動けなくなります。
警察に捕まるほどの悪事ではありません。
それでも、私を動けなくするようなものを私たちは抱えています。

病気の者、動けないものに向かってイエス様は言いました。
「起きて歩け」
「あなたの罪は赦された」
その言葉によって病気の人は立ち上がります。
歩き出します。
動き出します。
動ける。
「あなたの失敗をもう誰も咎めない」
「今のあなたとは関係がない」
人を動かす言葉。
私たちが求めている言葉でしょう。
私たちのみならず世界が待っている言葉でしょう。

もう一度、立ち上がれる。
もう一度、歩き出せる言葉。
私も、世界も待っています。
では、その言葉はどこにあるのか。

イエス様がいてくれたらイエス様に任せておけばいいでしょう。
ただ残念ながら2000年前にイエス様は私たちの前から姿を消しています。
では、世界が待っている言葉は誰が語るのか。

あなた達です。
あなた達が世界が求めている言葉を語るのです。

ですが私たちは世界が待っている言葉をなかなか語ることができません。
なぜでしょうか。
「あいつは俺たちを騙した」
「あの国はかつて私たちの大切なものを奪っていった」
「やられたんだからやり返すのが当然だろ」
いさかいを生み出す言葉はすぐに語れます。
争いの言葉はすぐに語れるのに、どうして世界が求めているはずの「赦し」の言葉は語れないのか。
おそらく私たちの心に貼り付いているからです。
あいつがやった過去が。
あの国がしでかした過去が。
自分の過去も貼り付いているでしょう。
過去が自分の心にしっかり貼り付き、貼り付いた心で相手を見る。

この心はNmber Oneの心です。
自分以外のものを意識してものを考える。
自分以外のものに支配されて、心奪われて、世界を見る。
Number Oneの心が作り出すものは争いの言葉です。

自分の貼り付いたものを剥がし、落とす。
自分でないもの、自分次第ではないもの
自分と自分以外
それをちゃんと見極めて、線を引いて、洗い落とす。
自分以外のものがなくなる
本当の自分になるはずです。

これは私の勘でしかないのですが
本当の自分になることができたら
何も貼り付いていない自分になることができたら
人を愛することしかできなくなるのではないか。
「それでいいよ」
「気にするな」
「もう、なんとも思っていない」
「大好きだよ」
赦しの言葉
愛の言葉
本当の私ならば語ることができるはずです。
動けなくなった人を動かす言葉
世界が待っている言葉を語ることができるはずです。

Only One
本当のわたし
世界のために自分自身を見つめる一日にしてください。