学校は「組織」か、それとも「物語」か?
学校は組織です。
学校は共同体です。
組織、共同体とは何か。
私たち動物は二つの現実認識を持っています。
「客観的現実」と「主観的現実」
「客観的現実」
現実はすべて人の認識によるもの。カントを持ち出すまでもありませんが、私、主体が認識をすることによって現実は生まれてくる。
主体的に生み出される現実ではあるが、「私が見た」とする現実。例えば「ここにリンゴがある」。それは私がいなくなっても、変わらずリンゴがあり続ければそれは「客観的現実」。私の存在に影響されないであるもの。
「主観的現実」
ここにリンゴがある、と私が言っても、私がいなくなればなくなるもの。「ああ、あの人は勘違いをしていたのね」。それは主観的現実。
動物はおそらくこの二つの現実認識を持ち合わせています。
あそこに行けば餌がある。どの動物が行ってもそこに餌があればそれは客観的現実。
猫と一緒に暮らす犬が、どういうわけだか、爪とぎをする猫を追っ払いたくなる。こいつのこの行為は許せぬ!その犬だけの現実。主観的現実。
動物は「客観的現実」と「主観的現実」の二つの現実認識は持っています。動物と人類を分けるもの。それはこの二つの現実認識の間にもうひとつの現実認識を持ったからではないか。
「共同主観的現実」
共同で見ている現実です。
動物は100頭の群れがおそらく最大と言われます。それは自分で見ている。触れるものしか仲間だと思えない。現実だと取り込めないからだと思われます。
人は「共同主観」を作り出すことができます。
主観的現実は主観者がいなくなればなくなるものとしましたが、これも同じです。共同で見ているもの、その全員がいなくなればなくなるものです。
国家、貨幣、システム、宗教
これらはすべて共同主観的現実です。
国家は、国境は人が勝手に引いたものです。客観的現実ではありません。かと言って、個人に帰属するような主観的現実でもありません。
1776年、独立戦争の開始時、アメリカの存在はイギリスは認めていませんでしたが、大陸に住む人々にはアメリカは現実のものでした。人によって見え方が違う。その人たちがいなくなればなくなるものは客観的現実ではありません。
貨幣も同じです。これを信用している人たちがいるから存在している。客観的現実では紙と鉱物です。しかも世界を回っている600兆ドルはほとんどがネットの中にしか存在しません。客観的にはないものを多くの人が「ある」としているから存在している。現実のものになっている。「共同主観的現実」です。
学校も共同主観的現実のものでしょう。その共同体の中で信用され「ある」「現実」とされているものです。
共同主観はどうして発生するのか。宗教を例に取りましょう。信者と呼ばれる人々が共同主観の対象にしているものはおそらく「物語」です。ユダヤ、キリスト教徒はアダムとエバの誕生、ノアの洪水、アブラハムの系譜、バビロン捕囚、イエスの復活、教会の世界宣教、その物語を有しています。その物語が自分の物語、自分がその物語の一員だと思えれば共同体のメンバーになるのでしょう。国家も、貨幣も同じでしょう。その約束事、物語に参加をすれば同じ夢、幻を見る共同体になります。
学校には学校の物語があります。点数を採る、次の進学先が決まっていく。良い仲間に恵まれて、自分に似合った職業に就くことができる。物語の一人になる、です。
共同体、組織とは何か。物語を持っているかどうかだと思います。
聖学院が聖学院の物語を持っていなければ、それは学校の一般的物語に吸収されるだけでしょう。ここにはここの物語がある。
聖学院ならば、これが流儀。流儀ではないことはしない。建学の精神、スクールモットー、問い、主体性、自立した学習者、それらは物語の一パーツにしかすぎません。学校の営みの中で矛盾が生じたり、前例と合わなくなったりして、パーツに固執しては部品の寄せ集めになってしまいます。物語が成立していれば矛盾や整合性は周辺の事柄になっていくでしょう。部品の寄せ集めと共同体は違います。共に見る夢幻、物語が共同体を作っていく。
聖学院の物語を紡いでいきたいと思います。

